シャムシールとは、ペルシャ(イランの旧名)の湾刀だ。ペルシャ語で「ライオンの尻尾」を意味する。のちに西洋に渡り、サーベルの起源になった。
全長は八〇~九〇センチが多く、一メートルを超える剣も存在した。刃渡りは七五~九〇センチで、片刃である。
最大の特長は、柄(カブザ)が刀身とは逆方向に曲がり、先端部が丸まっていることだ。この柄を「ライオンの頭」と呼ぶ。その姿は、イスラム圏の旗章にも用いられることのある美しいシルエットを描いてる。
シャムシールは英語では「シミター」となるが、ハービー・J・S・ヴィザーズ著『世界の刀剣歴史図鑑』では、シャムシールを「ペルシャのサーベル」とし、シミターを「中東のサーベル」と区別している。
シャムシールが誕生する以前のペルシャの刀剣は直刀であった。振り下ろして斬る刀剣の使い方に合わせて、湾刀へと変化していったのだ。(シャムシールはペルシャの刀剣の総称で、湾曲タイプと直身タイプがあり、ペルシャでは必ずしも湾刀の名称とは限らないとする説もあり)
イスマーイール一世のサファビー朝創設を助けた戦士集団「クズルバシュ」(ペルシア語ではキジルバーシュ)も、シャムシールを武器としていた。
十字軍の時代(1095~1291)、獅子心王(the Lion Hearted)の異名で知られるイングランド王リチャード一世が、イスラムの英雄サラディン(サラーフ・アッディーン)の軍と戦ったとき、イスラム教徒軍の多くは、シミター(シャムシール)を携えていた。
ライオンの頭をもつ「ライオンの尻尾(シャムシール)」という名の剣は、獅子王を迎え撃ったのだ。
【了】
古代中国の戦車は、三人乗りの二輪馬車であった。三人の乗員のうち、両側の二人が使った長柄武器が、この項目で取り上げる「戈」である。
戈は、中国古代における代表的兵器のひとつで、長い竹か木製の柄に、やや湾曲した青銅製の刃が垂直に取り付けられている。
なお、柄の先端に尖った両刃の穂先をつけた長柄武器を「矛(ぼう)」といい、後述する戈と矛の両方を組み合わせた穂先をもつ長柄武器を「戟(げき)」と呼ぶ。
戈の使い方は、戦車がすれ違うときに、両手で敵の戦車に向かって刃を打ち込む、もしくは引っかけて突き刺し、戦車から落とす。
直線的な刃の武器で突くよりも、戈のような引っかける部分がある刃のほうが命中率が高い。戦車のスピードもいかせた。そのため、戦車が軍隊の主力であった商、周(前一六~前三世紀)時代に、多く用いられた。
出土された戈の柄の長さは、短いものでも一メートル、長いものだと、なんと三メートルにも達する。(使われなくなってからの期間が長いため、実物がどのようなものであったのかは、出土品でしかわからない)
柄の長さによって攻撃方法は異なる。長いものは戦車の車輪および、敵の乗員を標的とし、短いものは主に戦車から歩兵を餌食にした。
戦車戦の申し子ともいうべき戈であったが、あまりに戦車戦に適していたため、漢になって戦車戦が廃れると、ともに衰退するしかなかった。戦車戦が廃れたのちは、先述の「戟」が、唐代に儀式用の武器になるまで、主役の座に就くことになる。
「戈」の字は、後世に「干戈を交える(武器をとって戦う 戦争をする)」という言葉に残る。しかし、この言葉における「戈」は武器の総称で、戈そのものを指している訳ではない。とはいえ、総称になるほど、戈は代表的な武器であったのだろう。
【了】
【フランキスカ】 売買禁止 フランク人の投げる戦斧は一人前の戦士の証?
戦斧の利用方法は、手でもって襲いかかるだけではない。投げる武器としても用いられた。投げる戦斧を特有の武器としたのが、フランク人である。
フランク人とは、ゲルマン民族の一派だ。サリ族、リブアリ族、カッティ族などもともとは多数の部族群からなっていた。サリ族のクロヴィス (四六五/四六~五一一)が、部族統一を行い、フランク王国を築き上げる(メロヴィング朝)。
八世紀半ばにカロリング家に王朝が移り(カロリング朝)カール大帝(シャルルマーニュ)の時に最盛期を迎え、西ヨーロッパの大部分のに版図を拡大する。しかし、八四三年に三分されて、ドイツ・フランス・イタリアの起源となった。
西ヨーロッパの歴史において重要な役割を演じたフランク人の代表的な武器は、「アンゴン」と呼ばれる掛り鏃をもつ長い投槍と、この項目で取り上げるフランキスカと呼ばれる戦斧である。
フランキスカは、長さ五〇センチ、斧頭の重さは平均して〇・六キロ、総重量は一・四キロ程度だ。柄から上向きかげんに刃が湾曲しているのが特徴である。柄が比較的短いため、使わないときは、腰のベルトに刺して持ち運ぶこともできた。
投擲されたフランキスカは、回転しながら敵に向かう。一五メートルの範囲内なら高い命中率を誇った。
ただし、現代の実験では四メートル(三メートル説あり)ごとに一回転したことから、四メートル、八メートル、一二メートル時にのみしか、斧頭が敵に当たるタイミングがなかったという。(『武器甲冑図鑑』市川定春)
戦法としては、敵を充分に引きつけてから投げ、投擲後に剣などとどめを刺すのが一般的だ。これは重投擲武器の典型的用法だが、手に握り、敵を直接にたたき割った強者もいたに違いない。
フランク人が残した法典によると、フランキスカの所有を許されたのは成人した者のみだという。単なる武器ではなく「一人前の戦士の証」としての意味合いもあり、売買は禁止されていたものと考えられている。
フランキスカは、フランク王国建国以前から、王国最盛期のカール大帝の時代まで使われ続けた。一説によれば、フランク人はを弓を扱うことが得意でなかったため、フランキスカを好んだという。
そのフランキスカも、部隊の騎兵化に伴い、いつしか忘れ去られた。
二刀流というと、日本ではまず宮本武蔵の名が挙がる。今なら、ピッチャーとバッターの両方で活躍する大谷翔平選手を連想する方も多いだろう。中国では、明代(一三六八~一六四四)の口語体の長編小説『水滸伝』に登場する怪力の豪傑・李逵が二刀流である。
二刀流といっても、李逵が操るのは刀でも剣でもない。李逵が両手に持つのは「板斧」と呼ばれる戦斧である。
板斧は実在した武器だ。短兵器に分類され、片手で使う。柄は木製で約九〇センチ、刃は長さ約三九センチ、幅は約二九センチで、柔らかい鉄を硬い鋼鉄で包んだものだ。(『武器と防具 中国編』篠田耕一)用途は、長兵器に属する大斧(だいふ)と同じで、割ったり、叩き切ったりする。
李逵は、この二丁の板斧を武器に戦場を暴れ回り、死体の山を築いていく。両手の板斧が巻き起こす血しぶきが、つむじ風を連想させることから「黒旋風」の仇名がついた。色の黒さから鉄牛(てつぎゅう)とも呼ばれる。
『水滸伝』は、ふとしたはずみで盗賊となった宋江(そうこう)を首領とする一〇八人の豪傑が、山東省の梁山泊(りょうざんぱく)に集結して官軍に抵抗し、やがて滅びていく物語だ。『宋史』にも載っている「宋江の反乱」が脚色されて民間に流布していたのを、本来は三六人であった盗賊団を一〇八人とするなど、さらにふくらませた。
江州(江西省九江)の牢役人だった李逵は、流刑に来た宋江を慕い、最後は宋江とともに毒酒をあおって死ぬ。
天殺星の宿命を背負い、凶暴ではあるが、心は子どものように純粋な李逵は、数多い登場人物のなかでも抜群の人気を誇る。民衆の間ではアイドル的な存在で、元代の芝居では、李逵を主役としたものが多く演じられた。
宮本武蔵しかり、大谷翔平選手しかり、李逵しかり、二刀流の使い手は、いつの世も人を惹きつけるものだ。
〈了〉
故西城秀樹氏のヒット曲『ブーメラン・ストリート』の影響か、ブーメランはよく知られた武器だ。「く」の字型の木製飛道具で、片方を握り、回転を与えながら投げる。回転を与えることにより飛距離を増し、的に当たったときの衝撃力も増す。主にオーストラリアの先住民アボリジニーが、鳥や小動物の狩猟および、戦闘に用いた。
『ブーメラン・ストリート』の、「きっとあなたは戻ってくるだろう」の歌詞があまりにも有名なせいか、どんなブーメランでも、投げたら手元に返ってくると思っている方も多いのではないだろうか。
だが、すべてのブーメランが戻ってくるようにできているわけではない。本体のプロペラのようなひねりの有無により、的を外せば戻ってくるタイプのものと、命中してもしなくても戻ってこないタイプの二つに分かれる。
戦闘に用いるのは、意外にも戻ってこないタイプだ。
戻ってくれば、回収する手間が省ける。それなのに、なぜ、戻ってこないタイプのブーメランを戦闘用に用いるのか。
戻ってくるタイプのブーメランは、標的に当たればそのまま落下し、外せば、投擲時とほとんど変わらぬ回転や速度のままで、ほぼ元の場所に返ってくる。これを受け取るためには、投げ手はブーメランの動きに注意を払っていなければならない、すなわち、敵に対して無防備な状態になってしまう。
しかも、乱戦では味方に当たる可能性も高いし、受け取り損ねると、大怪我をしかねない。
他人の言動を攻撃・非難する発言をしたのちに、自分も同じことをしていたことが発覚し、自分で自分の首をしめるような事態に陥ることなどを、主にネット関係で「ブーメラン」と称することがある。戻ってくるタイプのブーメランを戦闘に使うと、まさにこの「ブーメラン」状態のように、敵へ与えるはずの打撃が、もろに自分たちに跳ね返ってきてしまうのだ。
【了】
現代日本では象というと、動物園で鑑賞する、賢くて、長い鼻が愛らしい動物だ。しかし、象は長い間、戦車に匹敵する恐ろしい巨大兵器であった。その大きさ、重量、力から、象は軍事目的に利用され、戦場で殺戮の嵐を巻き起こしてきたのだ。
象の軍事的利用は、インドで起ったとされる。王侯貴族専用であったようだが、飼い慣らされた象を乗り物としていたインドにおいて、象を「戦象」――すなわち兵器として戦争に導入するのは自然の流れだ。
西方世界が、初めて戦場で多数の戦象に遭遇したのは、インドに遠征したアレクサンドロス大王(アレクサンドロス三世)が、紀元前三二六年にヒュダスペス河畔で戦ったときだといわれている。初めて戦象を目の当りしたアレクサンドロス大王の軍勢は、未知なる巨大動物にさぞかし驚愕したであろう。
兵士以上に驚いたのは馬である。馬たちは、象の姿、声、においに混乱状態に陥った。
ヒュダスペス河での戦いでは、集中的な投げ槍攻撃と重装歩兵の槍攻撃の組み合わせなどで、激戦の末に撃退に成功したものの、戦象の威力は多くの武人の心に焼き付いたようだ。アレクサンドロス大王亡き後、大王の後継者を巡って起きた、その名も後継者(ディアドコイ)戦争では、多くの戦象が投入され、やがて、戦象部隊は極めて一般的なものとなっていく。
戦象部隊を率いた指揮官というと、カルタゴのハンニバルが有名だ。ローマと戦った第二次ポエニ戦争(紀元前三世紀末)では、最終的には敗れるものの、一時はローマを恐怖のどん底に陥れた。ハンニバルが乗っていた象は「シッシア」という名の、シリアからインド象であったという。
ローマのカエサルは、紀元前一世紀にブリタンニア(現イギリス)遠征に数頭の象を伴った。象を初めて目の当りにした現地のケルト人は、驚き、逃げ出したと伝わる。
兵士たちは戦象に直接またがる、あるいは櫓を載せてその中に入り、高い位置から長い槍や弓、投槍などで攻撃した。
火器が発達すると、戦象は生きる砲台と化す。大口径の銃砲を背に載せ、戦場を暴れ回った。
しかし、その大きな体は標的にもなりやすい。敵の攻撃から守るために、全身に金属製の鎧を着せた戦象も現れた。まさに、生きる戦車の風貌である。
戦象は、効果は絶大だが、欠点も大きかった。
ひとたび興奮すると、象使いですら制御できない場合が多い。怯えると壊走し、自軍に突っ込んでくることもある。そのため、象使いは、象の脳天を刺すための短い槍を保持していた。
勝手に連れてきてさんざん利用しておきながら、思うとおりに動かないとなると殺害するとは、いつの世も人間とは身勝手である。
【了】
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